One for all、All for one!「医」で世界中を笑顔に ロシナンテス 15年の軌跡(前編)~ふるさとWish北九州市~
主に、アフリカのスーダンやザンビアで医療支援活動を行うNPO法人「ロシナンテス」(福岡県北九州市)は、今年で設立から15年。理事長の川原尚行さんをはじめ、発足時の中心メンバーは同市の小倉高校ラグビー部OBです。発足のきっかけや苦労したこと、そして、ロシナンテスの未来はー。堅いスクラムを組んだメンバーたちが、語り合いました。
地域に“医療”を根付かせたい
2002年、外務省で医務官を務めていた川原尚行さんは、内戦中のスーダンに着任します。そこで、まともな医療を受けられない人たちが目の前にいるのに、何もできないもどかしさを痛感。一人の医者としてできることを考えた末、外務省を辞職してスーダンへ向かいます。
そして2005年、川原さんは仲間と共にNPO法人「ロシナンテス」を発足。以来、医療が届かない途上国で、巡回医療、診療所建設、病気の予防につながる給水所建設など、命と健康を守る取り組みを続けています。「支援した地域の人たちが『医療』を身に付け、自分たちだけで継続できる仕組みを根付かせることが、ロシナンテスの目標です」と川原さんは話します。
Q.ロシナンテス設立の経緯は?
-川原尚行 理事長(以下、川原)
九州大学卒業後、外務省の医務官になりました。着任したのは、内戦下のスーダンでした。でも業務上、目の前に病んだ人たちがいても何もできなかった。だったら!と、外務省を辞め、現地で医療活動をやろうと思い立ちました。そこで、まず東京に行き、支援を得ようと思いましたがなかなかうまくいかない。仕方なく小倉に戻ってきて、最初に会ったのが高校時代のラグビー部の後輩、海原でした。
-海原六郎 初代事務局長(以下、海原)
(ラグビー部時代の)キャプテンが帰ってくるということで、周りに声をかけたんです。
-川原
地元は輪があるなと。そのとき海原から「スタッフ候補にラグビー部の霜田がいますよ」と聞きました。霜田は、アフリカのキリマンジャロを旅していたんです。
-霜田治喜 初代現地スタッフ(発足時スーダンで川原とともに活動)(以下、霜田)
当時、あちこち旅していて、アフリカにも2週間ほど行ったばかりでした。
-川原
霜田に「一緒に行かないか?」と声を掛けたら、二つ返事でOKでした。
また、発足時に現地でいろいろサポートしてくれた竹友は、ラグビー部の一学年下のキャプテン。高校を卒業して以来会っていませんでしたが、タンザニアで医務官として働いている時に「患者さん、どうぞ」と声をかけたら、マラリアに感染した竹友が入ってきてびっくり!そこから付き合いが始まりました。竹友はイラクでユニセフに務めていた。そこで「スーダンに来る気ない?」と聞くと、ちょうど今、スーダンの応募が出ているというんです。「絶対に来いよ」と説得し、竹友も合流することになりました。
-海原
実を言うと、私は川原さんたちの最後の花園(全国高等学校ラグビーフットボール大会)予選で負けた時の悔いが残っていたんです。
(私が通っていた)当時、小倉高校はすごく強くて、花園に行けるんじゃないかと期待も高かった。でも1年生の自分がスクラムハーフとして出場したものの、県大会で負けてしまいました。その時はチームに貢献できなかったので、今度は絶対に川原キャプテンの役に立ちたいと思い、日本でのカンパ集めや事務仕事を願い出ました。
Q.仲間が集まり、さぁロシナンテス、スタートですね
-川原
お世話になっていた写真家さんが、宝珠山村に使わない車があって貰い手を探していると連絡があり、車を譲り受けました。友人の医者からも使わなくなった医療道具をいただき、これで巡回医療できるなということになった。譲り受けた大きなワゴン車には、その写真家さんが「すべてのロシナンテのために」とスペイン語で書いてくれました。これが、「ロシナンテス」の由来です。「ロシナンテというのは、ドン・キホーテに出てくる痩せた馬のこと。一人ひとりの力は小さい。しかし力を合わせて、ロシナンテがロシナンテスになったら、何か大きな力になるよね」とメッセージもいただいて。この団体を作ったら「ロシナンテス」にしようと決めていた。自分も海原も霜田もロシナンテだが、集まってロシナンテスになればと思いました。
かくして、ラグビーで培われた固い結束力を武器に、”ロシナンテたち”は走り出します。(後編へ)