One for all、All for one!「医」で世界中を笑顔に ロシナンテス 15年の軌跡(後編)~ふるさとWish北九州市~
命の危険を感じたあの日
-川原
2005年4月、小倉高校で出陣式をして、全校生徒に約束しようと思い立ちました。後輩たちにアフリカでの活動を誓い、応援してもらって頑張ろうと。実際に応援団とラグビー部の後輩たちが集まり、「フレーフレー川原!フレーフレー霜田!」と送り出してくれました。東京でも小倉高校の先輩やスーダン大使館の方々が集まってくれ、小倉高校の校歌を歌うとともに、アフリカでの活動を誓いました。
-海原
川原さんは周りの人を巻き込み、前にぐいぐい進んでいきました。資金集めについては、川原さんたちがスーダンに向けて出発した後、小倉高校同窓会東京支部の先輩方から「カンパではなく、組織を作って寄付を集めなさい。俺たちがサポートをするから」とアドバイスを受けました。そして、先輩方と特定非営利活動法人を作ろうという動きが始まったのです。
Q.海原さんもスーダンに?
-海原
カンパ金集めのときに、川原さんから聞いた話ばかり答えていて、違和感がありました、これじゃ、お金は集まらないなと。そこで2005年7月、中東のドバイを経由してスーダンに向かいました。
Q.現地は大変だったみたいですね?
-海原
ドバイからスーダンに向かう際、飛行機が遅れていました。テレビを見てもアラビア語でよくわかりませんでしたが、どうもスーダンで争いごとが起きているらしい。でも、川原さんたちも安全に活動していると言っていたし、自分が行くハルツームは違うだろう、別のところで殺し合いが起きているのかな、と思っていました。
飛行機は4時間遅れで出発。ハルツーム空港に着くやいなや、乗ってきた人たちはカウンターに行き、降りた飛行機に再び乗る手続きをしていた。どうしたんだろうと疑問に思いながら、外に出たら真っ暗で人がいない。迎えに来るはずの川原さんも、待てど暮らせど来ませんでした。
2時間以上過ぎたころ、「海原~!」と川原さんの大きな声が聞こえました。「お前こんな大変な時に、よく来てくれたな!今日スーダンは大変やったんぞ。俺も死にそうになった!」と言いながら、抱きしめてくれました。話を聞くにつれ、大変な時に来たなぁと(実感した)。その日、首都で殺し合いがあって戒厳令が敷かれ、外出禁止になっていたんです。町中にはバリケードが敷かれていていました。そんな中で川原さんは「海原が来てくれる、あいつは空港で待ってるはずや!」と命がけで迎えに来てくれた。それを聞いたとき、“男・川原”を感じました。
Q.現地の様子はどうでした?
-海原
数日後、安全を確認して、地方のドカという町を視察しました。そこでマラリアやコレラなど、いろんな疾患で大変な目にあっている子供の姿を目の当たりにし、日本に帰ってみんなに伝えなくちゃいけないという気持ちを新たにしました。
帰国後、先輩方に報告すると、共に資金集めをしてくれることになりました。中には、わざわざ東京から九州まで来てくれる人もいた。一緒に企業を回って写真を見せながら「現地はこういう状況なんです、どうか私たちの団体を育ててください」と訴えかけてくれました。説明していると涙が出てくることもありました。
やがて無事に、NPO法人を設立。福岡の大手企業も支援してくれるようになり、川原さんもお金のことを気にせず活動に打ち込める体制になりました。
Q.初期のスーダンでの活動状況は?
-川原
内戦が起き、国は医療にお金を使わなくなっていました。地方に行ってみると、1つのベッドに2、3人が寝ていて、これが病院なのかという状況。建物の外では木の下に点滴をつるして、ベッドがあるといった環境で・・・、何とかしなければと感じていました。
-霜田
スーダンは初めてでしたが、イメージ通り、人のいい、治安のいい場所でした。最初は竹友さんが間借りしている部屋で、川原さん、竹友さんとの共同生活していました。
仕事は、首都ハルツームのイブン・シーナ病院で、川原さんが外科のチームに入って支援する形からスタートしました。その後、ガダーレフ州のドカの病院を拠点にして、地方の活動を始めました。地方に医療が届いていない状況で、医者が来てくれるということだけで、日本人であろうとウェルカムでした。常駐ではなく、約600キロ離れたハルツームと行き来して。当時は道も悪く、車で10時間くらいかかる道のりでした。
Q.書類の申請一つにしても大変だったみたいですね
-霜田
現地で活動するためには、すべて許可が必要です。最初は英語で書類を作っていましたが、本当はアラビア語でお願いしたいとのことだった。
-海原
霜田と一緒にスーダンの人道支援局に書類を出しに行くと、外で待っていろと言われました。けれど1時間経っても音沙汰がない。さらに2時間経って担当者に確認したところ「明日、また来い」と言われ、初日は引き返しました。次の日も朝から2人で同じ椅子に座るところからスタート。すると「今日は担当者が休みだからまた明日、来てくださいだって」と。3日目も同じ椅子に座りましたが、「午後からまた来て」と言われて出直したところ、やっと書類が渡されました。見たら、スタンプが1つ押してあるだけ。スタンプ1個もらうのに3日かかった。いつもこうなの?と聞いたら、霜田は「そうよ。これがスーダンの常識よ」と。それを聞いた時に「絶対、自分にこの仕事はできない」と痛感しました。
-川原
自分も最初は一緒に行っていたけれど、すぐイラついて、ガンガンとドアを鳴らしていました。このままだと自分はおかしくなるということで、あとは霜田に任せていた。霜田は粘り強い。霜田が人道支援局に顔を出していないときは、あの日本人がいないね、と逆に心配されるまでになっていました。
受け継ぐ若者たち
Q.15年に渡る活動を振り返って
-霜田
(とりあえず)1年間やってみようと引き受けた。けれどロシナンテスの発足時に東京で開かれた小倉高校の同窓会で、川原さんが「自分たちは一生、骨を埋めるつもりで行きます」と誓っていたんです。それを聞いて「これはいい加減にはできないな」と感じました。
現地での活動が始まると、スーダンの生活は肌が合い、仕事を続けることができました。その後、結婚し、家庭の事情で日本に戻りました。今は、できることは手伝っていこうというスタンス。将来的には、家の事情が落ち着けば、スーダンに戻りたいなと考えています。
-海原
思い起こしてみると、ロシナンテスの活動を通じて経験できたこと、学べたことは自分の人生の中で非常に大きい。ロシナンテスがなければ、父の会社を継いできちんとやれていたか、疑問に思うくらいです。大企業の経営者や外国の方の話、決めたことを実行する川原さんの後ろ姿、辛抱強く自分の仕事に向き合う霜田の姿勢など、いろんなところで大きな経験をさせてもらいました。事務局長をしていた10年間がなければ、自分の人生は寂しかったと思えるくらい、本当にやってよかった。亡くなった両親も、川原さんと活動してよかったねと思っているに違いありません。
-川原
15年目を迎え、感謝のひと言です。今は、若い人たちに現地で活動してもらっている。自分も55歳ですが、体力の続く限り、仲間とともに走り続けるつもりです。若い世代やアフリカの人たちとスクラムを組んで、さらにしっかりとした組織になり、次の10年、15年を迎えたいですね。
川原さんたちの活動を応援したいという方は、同団体のホームページ、またはお電話で問い合わせを。
ファシリテーター:高橋宏一郎
NPO法人「ロシナンテス」
福岡県北九州市小倉北区古船場町1-35 北九州市立商工貿易会館7F
093-521-6470