町の歴史を伝える“もの言わぬ語り部” 知られざる米軍ハウス~ふるさとWish春日市~
2019年10月02日
[ふるさとのチカラ]

福岡のベッドタウンとして人気の春日市。公共交通機関の利便性が良く、人口増加が進む、賑やかなまちです。そんな春日市には、かつて米軍基地「板付ベース」がありました。今から約50年前の1968年頃、まるで古いアメリカ映画のような風景が、まちの日常に存在していたのです。
戦後から1970年代まで春日市に存在した米軍基地「板付ベース」

1945年の敗戦後に開設された「板付ベース」は、約30年後、日本に返還されるまで春日市に存在しました。朝鮮戦争の際は前線拠点となり、ピーク時には約2500人のアメリカ人軍人が生活していたといわれています。基地周辺にはそうした米軍将兵用の住宅がたくさん建設され、通称「米軍ハウス」と呼ばれました。「米軍ハウス」には当時としては珍しい出窓があり、屋根はモルタル塗装。玄関近くの外壁には、「板付エアベース」を表わす「IAB」などの表記があります。
現存わずか20軒 薄れるまちの記憶を残したい

かつて500軒ほどあった「米軍ハウス」は、老朽化や都市開発が進み、現存するのはわずか20軒ほど。こうした「米軍ハウス」を残していこうと、5年前から活動をはじめたのが「春日ベース・ハウスの会」です。代表の神崎由美さん(55歳)は、最近、春日市に米軍ハウスがあったことを知らない人が増えてきているといいます。
「(春日市に)当たり前に米軍基地がなくなり、(市民は)それをわざわざ語り継いでいこうという意識はなかったと思います。だからどんどん米軍ハウスの存在は忘れられていく状況でした」という神崎さん。歴史を語る人が減る中、神崎さんは米軍ハウスを「もの言わぬ語り部」として残していくべきと考えています。
「古いというだけでなく、ちょっと印象的な感じがしませんか?」。神崎さんが1軒の「米軍ハウス」を案内してくれました。老朽化が進み、現在は物置として利用されているものの、うっすらと残る鮮やかなミントグリーンの壁色から、当時の日本とはかけ離れた先進的なアメリカ人の暮らしが見えてきます。

当時を知る藤野利夫さん(91歳)は、「(基地は)とにかく物だけはあるところだと思っていました。食料もあるし…」と回顧します。スクールバスの運転手として「板付ベース」で約20年勤務していた藤野さん。久しぶりに当時の写真を見てもらうと、送迎していた子どもたちの名前がスラスラと出てきます。「朝、迎えに行くと(米兵が)サンドイッチを作ってくれていてね、朝飯に食べろって…お酒も一緒に飲み明かしましたよ」と、藤野さんは当時の出来事を今も鮮明に覚えています。そして、「春日や白木原エリアは基地があってこそ、繁栄したと思いますよ」と感慨深く言葉をつなげました。
「板付ベース」では藤野さんのように多くの日本人が雇用され、1972年の返還後は基地で働いたノウハウを生かして起業した人もいました。大手スーパーの「マルキョウ」、外食産業を牽引した「ロイヤルホスト」、新サービス事業として発展し続ける「クリーニングのきょくとう」など、今や誰もが知っている企業の創設者も基地で働いていたのです。

一方「米軍ハウス」は、老朽化や都市開発によって、次々と姿を消しています。「(米軍基地は)負の歴史という部分はあるかもしれません。でも、いろんな文化を吸収して、この地域、このまちを今に導くものだったかもしれません。良い悪いは別として、基地は存在し、その上で生き抜いてきた人々の “頑張り”があって今があるのです。それを伝えていきたいと思っています」と神崎さん。薄れゆく町の軌跡を後世へ語り伝える一つの遺物として「米軍ハウス」の存在を広く伝えていきたいと、「春日ベース・ハウスの会」は、さまざまな活動を行っていくそうです。
まちの発展を支え、奮闘する人々を見守り続けた「米軍ハウス」。かつて斬新で先進的なデザインだった建物も、今や、住宅街にひっそり紛れるように佇んでいます。しかし、こうした「消えゆく歴史」こそ、今を生き、未来を創造しようとしている私たちにとって、考えるべき「大切なこと」を教えてくれる存在です。春日市を訪れた際は、ぜひ「米軍ハウス」を探してみてはいかがでしょうか。
※この記事は2019年の情報です(「シリタカ!」10月2日放送)。内容は変更している可能性があります。事前にご確認ください。