水際防衛 元寇防塁
2024年11月16日
[福岡県]
元寇(3)
今から750年前、最初の蒙古襲来「文永の役」で蒙古軍の威力を目の当たりにした日本。
再度の襲来に備え築かれたものが今も残る“元寇防塁”でした。
福岡市早良区の祖原公園。
「文永の役」で博多湾から上陸した蒙古軍は、ここに本陣を構え進撃。
日本軍5千に対し、2万5千の軍勢で圧倒的な力の差を見せつけました。
大国・元の脅威にさらされた幕府が、文永の役の直後、九州の御家人に命じて築かせたのが元寇防塁でした。西は今津から東の香椎まで約20km。高さ2mに及ぶ石垣がわずか半年で築かれたといいます。
その効果は2度目の蒙古襲来「弘安の役」で発揮されます。
前回同様上陸を試みた元軍ですが、防塁をいかし迎え撃つ日本軍はこれを阻止。
やむなく防備の薄い志賀島へ向かった元軍に対し、日本軍も果敢に応戦。
7日間の攻防の末、元軍はいったん沖へ撤退します。
防塁の力で、日本はまさに水際でしのぎ切ったのです。
しかし元軍にとっては、これは戦いの序章のはずでした。
出発が遅れていた約10万にも及ぶ軍がようやく合流。
4400隻・14万もの大軍となり長崎・鷹島沖で出撃体制を整えます。
そこへ襲ったのが暴風雨でした。
海の藻屑と消えた大軍。
その痕跡が海底に眠っていました。