「手描きの看板」(福岡県福岡市)
2025年06月08日

「とにかく映画が好きだった。」そう話すのは、映画看板職人の中村高徳さん。
長崎県五島列島北部の小値賀町に生まれ、幼少期から絵を描くことが大好き、特に映画が好きで映画のポスターを模写することを両親に切望していたという。
だが、中村さんの島には映画館がなかった。
そのため、佐世保に住む兄弟から、新聞に載っていた映画写真を切り取って封筒で送ってもらい、中学生まで模写をやり続けた。

17歳になった中村さんは小値賀町を離れて、親戚が住む福岡市へ移り住んだ。
そこで中村さんは運命的な出会いを果たす。
なんと家の前には、映画看板の工房があったのだ。
どうしても映画看板職人になりたかった中村さんは、目の前の工房に「美空ひばり」と「宍戸錠」の似顔絵を履歴書代わりに勢いで持っていくのだが、なんと、それで採用。
翌日から師匠の下で修業に励むことになった。
映画の全盛期だった60年代~80年代に中村さんはとにかく映画看板を描き続けた。
その数は約30年で1,000枚近くになるという。
だが、当時は毎週のように新作が上映されていたので、看板を描いてはそれを白く塗りつぶし、その上に新作を描いていくという作業が繰り返されていた。
そのため、今残っているのはわずか10枚程度だ。

映画看板で大事なことは「描きすぎないこと」だと中村さんは言う。
まつげが多い俳優を丁寧に描写しても、映画看板は見上げるほど高い位置に設置されているので、逆にインパクトが薄くなってしまうそうだ。
通りすがりに一瞬で判断できるように、描きすぎず、通行人の映画欲をかきたてる情報を伝える。
そのさじ加減が難しい。
また、当時の映画看板は、配給会社から送られてきた写真をそのまま模写するわけではなく、映画看板職人が俳優の配置や構図、文字のフォントを決めていた。
そのため、東京と福岡では看板のデザインが違っていたという。
それを描く映画看板職人が違うから結果そうなるわけで、唯一無二の映画看板がその当時、福岡の街中にはあふれていたのだ。

映画と共に80年近くを過ごしてきた中村さん。
そんな中村さんが未来に残したい風景は、手描きの映画看板そのものだ。平成に入るまでは、ほとんどが手描きだったそうで、街中に色んな職人の看板が飾られていた。
中村さんはそれを見比べながら散策することが好きだったという。
今では依頼がなくなり、映画の看板を描くことはほとんど無くなったそうだが、もし依頼があれば、引き受ける気持ちはあるという。
どこまでいっても、中村さんは映画が好きなのだ。
17歳当時の憧れは、80歳になっても変わらないのだ。