工房に一歩足を踏み入れると、楠の木の清々しい香りが鼻をくすぐる。87歳の中原恵峰さんが、窓を閉め切った静かな空間で、小槌を打つ音を響かせながら黙々とノミや彫刻刀を動かしている。
「普段は窓を開けないんです。乾いた風が入ると、木にヒビが入るから」。
72年間、一日も休みたいと思ったことがないという中原さん。佐賀県の重要無形民俗文化財「面浮立(めんぶりゅう)」で使われる鬼の面を作り続ける、数少ない職人のひとりだ。
2月27日から3日間開催される「佐賀つくるまちの開放日」で、普段は閉ざされたこの工房が一般に開放される。
■独学で築いた、伝統の技
中原さんがこの道に入ったのは、昭和29年、15歳のとき。当時は戦後の混乱期で、面浮立の伝統は途絶えかけていた。
「師匠も面の作り方を知らなかったんです。地区地区で顔が違う面を借りてきて、自分で見て覚えました」。
5年間の修業は厳しかった。住み込みで休みは月に2日だけ、夜9時まで仕事をした後、さらに自分の練習。お小遣いとして500円をもらっていた。
「でも、子どもの頃からものづくりが好きでね。中学生の時はワラ草履を作って売って、クラス費を自分で払っていましたから」。
その情熱は87歳の今も変わらない。右手の小指は、長年彫刻刀を握り続けた結果、曲がったままだ。
「職業病ですね。でも痛くはない。仕事が楽しいから、休みたいと思ったことは一度もないですよ」。
72年にわたる献身的な技術継承が評価され、令和5年には中原さんの浮立面制作技術が佐賀県重要無形民俗文化財に登録された。
■5年がかりの「旬」を待つ
作業台の上には、荒彫りの状態の面がいくつか並んでいる。しかし、ここに至るまでの道のりは想像以上に長い。
「彫刻の作業は1〜2週間ですが、その前に木材を5〜6年かけて乾燥させるんです」。
中原さんが使うのは、九州北部産の楠。だが、どんな楠でもいいわけではない。
「木にも『旬』があってね。春先の成長期に切った木は水分が多くて、ヒビが入ったり虫が食ったりする。秋から冬、木が休眠している時期に伐採された木だけを使います」。
さらに、畑や田んぼの近くで育った木は避ける。肥料の栄養を吸って育つと、年輪の間隔が広がり、材質が詰まっていないからだ。
「人間も同じでしょう。楽して育った人と、苦労して育った人では、人間性が違う。木は、山の厳しい環境でゆっくり育ったものが一番いいんです」。
丸太で購入後、3年間乾燥させ、製材後にさらに2〜3年。急激な乾燥を避けるため、切り口にはボンドなどを塗って膜を張り、乾燥速度を調整する。
「お客さんに渡した後にヒビが入ったら、作り手として命取りですから」。
「命取り」——その二文字に、見えない5年間と、揺るがない72年間が凝縮されている。
完成品の美しさは誰にでも見える。しかし、その裏に隠された「失敗を許さない執念」こそが、87歳の職人が守り続ける、本当の伝統なのだ。
守り続ける木の品質。その厳格さの先に、何十年も割れない信頼が生まれる。
■手彫りだけが生む、温かみ
面の表面を撫でると、驚くほど滑らかだ。しかしよく見ると、彫刻刀の鑿跡(のみあと)が残っている。
「ヤスリは一切使いません。道具を頻繁に研いで、彫ったままで仕上げる。機械仕上げはプラスチックみたいでしょう。手彫りだから、この温かみが出るんです」
木目にもこだわる。材料の中心を面の中心に合わせることで、左右対称の美しい木目を実現する。
「この木目を生かすために、木材のいい部分だけを使う。余った部分は、ムツゴロウの置物などに使います」。
最後の仕上げは、蜜蝋やハゼ蝋で艶を出す。楠の香りが立ち上り、鬼の顔が命を宿す瞬間だ。
■神事の道具から、暮らしの守り神へ
面浮立は300年の歴史を持つ伝統芸能だ。鬼の面をつけて笛や太鼓に合わせて踊る、佐賀県南西部に伝わる神事である。
昭和51年の佐賀国体で披露されて以降、広く知られるようになった。小学校の運動会でも踊られるほど、地域に根付いた文化だ。
「口が開いているのが女面、閉じているのが男面。行列では男面が先頭を行って、女面が続きます」。
飾るときは、向かって左に男面、右に女面。結婚披露宴の席次と同じだという。
近年、面の役割は変化している。かつては神事のための道具だったが、今では新築祝いなど、お祝いの品として贈られることが増えた。
「銀行さんがゴルフコンペの優勝賞品に使ってくださってね。自分で買うのとは違って、優勝して手に入れた面だから、価値が全然違うとおっしゃられます。優勝した方がわざわざ私を訪ねて記念写真を撮りに来られたこともありますよ」。
しかし、床の間のある家が減り、生活様式が変化する中で、注文は減少傾向にある。
■次世代へ、そして世界へ
息子の博和さんは1年前、会社を早期退職してこの道に入った。
「口で教えるより、本人が直接仕事に携わって、自分で感じて覚えていくものです」。
少子高齢化で、面浮立の踊り手も、面を作る職人も減っている。市内で制作を続けているのは、もう2軒だけだ。
「この伝統工芸と文化を、自分たちの代で繋いでいきたい」。
新たな活路として、海外への展開も視野に入れている。過去のイベントでは、フランス人やアメリカ人が購入していった実績もある。
■佐賀つくるまちの開放日で感じる、五感の体験
今回の佐賀つくるまちの開放日では、普段は閉ざされた制作現場を体験できる。
小槌の音。楠の香り。手彫りの滑らかな手触り。完成までに5年かかるという、目に見えない時間の重み。
「完成品だけ見るのと違って、途中の工程を見ることで、物のありがたみがわかる。そして、自分もものづくりしてみようかなって思ってもらえたら嬉しいです」。
87歳の中原さんは、同級生で仕事をしている人はもういないだろうと笑う。
「仕事をしているというより、楽しんでいる感じですね。よく食べて、よく寝て、よく仕事をする。ストレスがないから、これが一番幸せです」。
窓を閉ざして守る品質。扉を開いて伝える価値。
72年間の手仕事が、新しい時代へと歩み始めている。
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■『中原恵峰工房』
住所:佐賀県鹿島市高津原3480-4
TEL:0954-62-0872
営業時間:8:30〜17:30
定休日:日曜
公式サイト:https://keihokohbo.amebaownd.com/
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■イベント情報『佐賀つくるまちの開放日』
日程:2026年2月27日(金)〜3月1日(日)
会場:中原恵峰工房ほか、佐賀県内14事業者
内容:工房見学、ワークショップ、製品販売
公式サイト:https://saga-tsukurumachi.com
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■ 中原恵峰工房
住所:佐賀県鹿島市高津原3480-4
中原恵峰工房 公式サイト
佐賀つくるまちの開放日 公式サイト
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