大宰府と梅 深いつながり
2019年06月08日
[福岡県]
梅花の宴(2)
“太宰府と梅”といえば、学問の神様・菅原道真を祀った太宰府天満宮を誰しも思い浮かべるはず。道真を追って京の都から梅が飛んできた、という「飛梅伝説」も有名です。
ただ「令和」の由来となった万葉集「梅花の歌」序文が、大宰府で記されたのは、道真が大宰府に来た時代より、約170年も前の事とされています。
当時、大宰府には「遠の朝廷」と呼ばれた場所がありました。
今も残る、大宰府政庁跡です。7世紀後半、朝廷は九州を治め、日本の西の防衛と、外国との交渉の窓口としてこの場所に役所を置いたのです。「大宰府」とはその役所の名前でした。
奈良の平城京、京都の平安京に次ぐ規模を誇っていたとされる大宰府。その長官にあたる大宰帥(そち)を朝廷から任されていた人物こそが、「令和」由来の作者です。
その人の名は大伴旅人。
若い頃から武将として、数々の手柄をあげた旅人が大宰府にやってきたのは、齢を重ねた63歳の時でした。そして旅人とある人物との出会いが「梅花の歌」誕生へと繋がりました。