親交?or侵攻?
2024年11月02日
[福岡県]
元寇(1)
博多湾のかつての海岸線に点在する石垣。
鎌倉時代、蒙古襲来に備えて築かれた“元寇防塁”です。
その存在は知っていても、どんな役割を果たしたのか、そもそも元寇とはどんな事件だったのか…。
今年は蒙古襲来から750年。
この機会に改めて「元寇」について掘り下げてみます。
元寇のそもそもの発端は、モンゴル帝国の皇帝フビライ・ハンが日本に送った国書でした。
使者を通じて大宰府に届けられた137文字の短文。
そこには「一家のように親しく通交しよう」という一方、「受け入れられなければ武力行使も辞さない」ととれる内容が記されていました。
当時、世界史上最大の勢力を築いていたモンゴル帝国が日本を支配下に治めようとした…。
圧倒的な国力の差を考えればそう捉えるのが自然かもしれません。
しかし最近の研究では、この国書は前例がないほど丁重なものだったという説があります。
特に末尾にある「不宣(ふせん)」の文字は友人間の書簡で使う用語で、立場が対等な相手に対し記すものでした。
もしかすると征服の意図はなく、対等な通交を求めたのかも。その真意に関しては未だ意見が分かれるところです。
日本にしてみれば巨大帝国に飲み込まれる危機感を抱いたとしても無理はありません。
当時の鎌倉幕府は一切の返信をせず、無視を決め込みました。
最初の使者を送ってから6年。
業を煮やした蒙古が、ついにやってきます。