【戦後80年】「この捕虜は殺すつもりだった」命を奪った戦争の狂気「許されざるメス~九州大学生体解剖事件~」(2005年 KBC制作)
福岡|
09/12 17:00
【「血液の代わりに海水を体内に・・・」沈黙を破る、医師の告白】

「もし血液の代わりに海水を注入したら、人間はどれほど生きられるのか―」
太平洋戦争末期、福岡で実際に行われた前代未聞の生体実験。
九州大学での米兵捕虜生体解剖事件である。
医師、看護師、そして軍人までもが関与した前代未聞の出来事は、戦後、GHQの裁きによって世に明らかとなった。
しかし時の流れとともに、人々の記憶からは次第に薄れつつあった。
「なぜ事件は起きたのか。
なぜ医師が捕虜を手にかけることになったのか。
事件の深層を後世に伝えたい―」最後の生存者・福岡市の産婦人科医 東野利夫が九州朝日放送の取材にすべてを語った。
【B29撃墜と捕虜の運命】

1945年5月、福岡空襲のさなか、日本の戦闘機が米軍B29に体当たりし、搭乗員11人が脱出した。
うち4人は住民による暴行などで死亡し、7人が捕虜となった。
捕虜は西部軍司令部に送られた後、九州大学へ移送され、生体解剖実験の犠牲となる。
旧日本軍からの「適宜処分せよ」との暗号電報が事実上の処刑命令となり、医学部教授らが加担することになった。
【解剖室での惨劇と医師たちの関与】

実験は解剖実習室で4日間にわたり行われ、肺や心臓、肝臓などが生きたまま切除された。
代用輸血として海水を注入するなど、医学の名を借りた残虐な試みが続いた。
当時、大学1年生だった福岡市の産婦人科医・東野利夫は助手として、出術のすべてを目撃していた。
なぜ、海水を米兵の体内に注入したのか?その問いに対し東野は「当時、福岡市内も米軍機による空襲で大勢の犠牲者が出る中、手術のための血液が不足していた。
一定の塩分濃度がある海水を血液の代わりに体内に注入したら、人間はどのくらい生きられるのか、試したかったということ。
結核患者も多い時代。
肺を切除したら、人間はどのくらい生きられるのかも知りたかった。
軍司令部からは処分せよ、と指示された米兵たち。
どうせ処分するなら、と医師や軍人は考えていた。
連日の空襲で大勢の人が亡くなっている時代。
日本人を助けるための生体実験について、当時、おかしいとは思わなかった。
それが当時の時代の雰囲気。
それが戦争の狂気だ」

終戦翌年の1946年、GHQの捜査により九大関係者14人、西部軍関係者11人が逮捕され、横浜軍事法廷で裁かれた。
5人が死刑、18人が有罪判決を受けた。
裁判で、現場に立ち会った医師たちは「軍の命令と上司への服従」を理由に弁明したが、犠牲者への謝罪はなかった。
今回、事件の真相を探るため、アメリカの公文書館で裁判資料を調べたところ、日本のメディアとしては初めて、当時、逮捕された医師や軍人たちの取り調べ調書を見つけることが出来た。
主導した石山教授は取り調べに対し、責任を否定しつづけ、自ら命を絶ったが、「軍の命令に従っただけ」と遺書には記されていた。
【記憶の継承と遺族の思い】

犠牲者の一人デール・プランベックの遺族は、父が医師たちにより解剖され殺害された事実を戦後数年経って知らされた。
娘のジンジャー氏は「命を救うはずの医師が父を奪った」と憤りと悲しみを語った。
戦争の狂気の中で人間性を失った医師たちの行為は、加害者と遺族双方に深い傷を残し、記憶の継承が今日も問われている。
「許されざるメス~九州大学生体解剖事件~」
KBCテレビで9月13日(土)午前4時25分~放送
戦後80年の今年、KBCでは戦争体験者の声を多くの人々に語り継ぐため、【戦後80年KBCアーカイブス】と題して過去に放送したドキュメンタリーを再放送します。
KBC に語った戦争の事実を後世に残していきます。