米軍機による列車銃撃から80年 実現した参列「湯の花トンネル」慰霊の集い
社会|
08/22 15:13
80年前の終戦直前、東京・八王子市で中央本線の下り列車がアメリカ軍の戦闘機によって銃撃されました。50人以上が命を奪われ、今も身元が分からない犠牲者もいる一方で、新たな遺族同士の交流も始まっています。
■終戦間際の悲劇 「湯の花トンネル列車銃撃」
八王子市で今月5日に行われた慰霊の集い。
1945年、八王子市の「湯の花(いのはな)トンネル」付近を走る列車が、アメリカ軍の戦闘機から銃撃を受け、乗客50人以上が犠牲になりました。
この銃撃を目撃していた人がいます。三宅修さん(93)です。当時、工場建設のため現場近くに駆り出されていました。
三宅修さん
「まだ空襲警報の最中なのに、突然汽笛が聞こえたんです。列車の走る音が聞こえました。アメリカの戦闘機の急降下の音と機銃掃射の音。戦闘機が急降下で列車を銃撃していくのが見えたんです。アメリカ兵の横顔が見えて、機関銃を引いている姿も見えました。ほんとに悔しかったですね。あんな惨事になるとは思わずに」
湯の花トンネルの手前を走っていた列車は急停車し、トンネルの外に残された客車が、さらに銃撃を受けました。
列車には疎開する人らが大勢乗車していました。
当時、列車に乗っていた黒柳美恵子さん(94)です。中央本線の新宿駅から長野県に疎開する途中で、ともに乗っていた姉の良子さんを目の前で失いました。
黒柳美恵子さん
「発車して間もなく、すごいバリバリッという音がしたんですね。窓を閉めろという声は聞こえましたけど、とりあえず私と姉とは伏せたんです。一瞬でしたね、バリバリッと音とともに血の海ですよ、列車の中はね。姉に声をかけたんですけど、もう返事はなかったです。もうバタンとしてるからね。伏せてるから起こして呼んだけど分かんない。もう亡くなったというのは分かったわね」
■戦後80年 実現した参列「湯の花トンネル」慰霊の集い
戦後、現場近くの線路脇には慰霊碑が建てられ、遺族らが毎年祈りを捧げています。
「(お母さん)見える?お父さんの名前、良かったね」
戦後80年となった今年、新たに身元が判明した犠牲者がいます。田村米蔵さんです。きっかけは「湯の花トンネル」のことを伝える報道でした。
田村米蔵さんの長女
松本三津子さん(88)
「8月5日に機銃掃射で父が亡くなったというのを(母から)聞いてて、そのお話ししているのを聞いてたらちょうど一致したんですよ。それでもしかしたらと。忙しい人でうちにあまりいなかったというのは聞いてます。私はすごい可愛いがられたので覚えてますけどね。優しかったです、(私が)初めての女の子だから。本人だってまだ死にたくなかったですよね?40歳ですからね、ましてや子ども4人置いてね。だからその後の母は大変だったです」
妹の裕子さん(81)
「母親が一番ほっとしているんじゃないかな。やっぱり母親が一番ありがとうっていうことを、私たちに言ってるのかなと思う」
松本三津子さん
「あそこ(トンネル)に行ったときは感無量で、もう涙が止まらなかったですね。今でもあのトンネルを見たらダメです。苦しかっただろうな、寂しかっただろうなと思うとね」
「おかげでたどり着きました。本当にありがとうございます」
今年の慰霊の集いには、遺族として初めて参列しました。
松本三津子さん
「やっぱりトンネル見るとダメです。思い出すっていうかね、この(トンネルの)中に早く入っちゃえば助かったのにと思いますよね」
遺族同士のつながりも生まれました。
松本三津子さん
「何と言っていいか、80年ぶりで父の場所が分かったということで、もう場所を見たらダメなんです。涙が出ちゃって。何も分からなかったですから。8歳だったものですからね」
黒柳美恵子さん
「長いようですが、遺族にとりましては忘れられない歳月です。1年に1度の8月5日をどんなことがあっても参り、お世話になった皆さまに感謝しておりました」
「あそこ(慰霊碑)に名前が載ることによって同じ境遇なのね。ただ仏縁だなんて片付けられない、亡くなった人の家族は。若い人に想像つかないと思う、当たり前よ。こんなにいい世の中になってね。私たちもこんなにいい世の中になっているとは思わなかった。あっちゃいけないことだから。知らなくて当たり前なことが当たり前じゃなかったんだしね。想像つかないと思います。だから若い人にああしろこうしろって言うんじゃなくて、戦争は絶対しちゃいけないってことだけね」
80年が経ったこれからも祈りを捧げ続けます。
松本三津子さん
「お父さん来ましたよって感じですよね」
妹の裕子さん
「母を連れてきたので、お父さんのところへ。良かったねと思ってます」
松本三津子さん
「私たちは見つかっただけ幸せですよね。まだたくさん分からない方、いらっしゃるでしょうからね。あと1年遅かったら、もう多分来られなかったと思うんですけど。本当にずっと継続していただいてありがたかったです。戦争だけはやめてほしいですね、どこの国でも」