歌手から俳優に“演技と人生”残した言葉…いしだあゆみさん死去
社会|
03/17 23:30

歌手で俳優のいしだあゆみさんが今月11日、甲状腺機能低下症のため、亡くなりました。76歳でした。
1948年生まれ、大阪・池田市出身。幼いころから、フィギュアスケートの選手として活躍。また、児童劇団でも活動していました。
ミリオンセラーとなった『ブルー・ライト・ヨコハマ』。
カタカナで歌われた『ヨコハマ』。歌詞のイメージは、港の見える丘公園からの横浜と川崎の工場地帯の夜景と、フランス・カンヌの夜景を重ねたものだったそうです。リリースは1968年、クリスマス。いしださんが20歳のときでした。
『ブルー・ライト・ヨコハマ』は、横浜開港150周年の2008年に、横浜市が実施した『好きな横浜の歌』アンケートで、第1位に選ばれました。以来、横浜のイメージカラーといえばブルー。そういわれるほど、港町を代表する曲として、語り継がれています。
いしだあゆみさん(1994年2月23日
当時45)
「レコード1枚も持ってないんです、自分の。(Q昔のものとっておく趣味ない?)歌手のときからレコーディング終わって、それで終わりみたいな。自覚がなかったのと、私は歌が下手なんだというコンプレックスがあった」
「歌は下手」といういしださんですが、もう1曲、大ヒットしたのが『あなたならどうする』。いわゆる“ムード歌謡”で、数々の歌番組に出演しました。
1977年、音楽ユニット『ティン・パン・アレー』とアルバムを共同制作。当時、全盛期だったニューミュージックの世界でも、憂いのある優しい歌声を響かせました。アルバムは、“シティー・ポップの金字塔”とも呼ばれています。
歌手として一世を風靡したいしださん。1970年代後半からは、俳優として数多くの作品に出演しました。
1981年公開の『駅
STATION』では、高倉健さんの妻役として共演しました。別れた夫に向けた敬礼。笑顔と涙が、観客の心に焼き付きました。
脚本は、倉本聰さんです。
倉本聰さん
「『泣かないでくれ』と言ったのかもしれません。だから、涙を流しちゃうと、ありきたりの別れのシーンになっちゃうから泣かない。最後まで涙に耐えちゃう。耐えるけど、涙が出てきちゃうっていう。その表現が、あれだけの短い時間のなかで、よく出したものだと。すごかった、あゆみちゃんの芝居は。それだけで強烈な印象を残して、アカデミー賞の助演女優賞の候補になっちゃうという。その演技のすさまじさというのは、やっぱり僕らもびっくりした」
また、作家・檀一雄さんの遺作を映画化した『火宅の人』に、主人公の妻役として出演。この演技で、ブルーリボン主演女優賞、日本アカデミー賞最優秀主演女優賞など、数々の賞に輝きました。
いしだあゆみさん(1982年10月27日
当時34)
「ラブストーリーが好きなんですね、大好き。体を絡め合わせるラブシーンもすてきだと思いますけれど、遠くに離れていて、目と目でラブシーンっていう方が色っぽいと思うんですよね。その方が罪があると思いません?」
テレビドラマでは、倉本聰さん脚本の『北の国から』で、母親役として出演しました。
倉本聰さん
「『北の国から』は本当に厳しい撮影だったんですよ。あの年は、もうマイナス30度に近かったですから。それを深夜まで原野のなかで、凍りつくなかで撮った。実際、4キロの道を彼女は歩いたんですね。顔が凍りついていて真っ赤で。鼻の頭なんかも、半分、凍ったような顔。『この顔で撮らないと、4キロ歩いたという絵にならない』ということで、中に入れと言っても、絶対、(室内)入らなかった、一人だけ。これに、みんなショック受けちゃいまして、田中邦衛さんも螢ももちろんですけど。役者ってのは、こういうもんだということで、それまで撮影していたキャストの意識がガラッと変わった。そのくらい強烈なあゆみちゃんの芝居だった」
『やすらぎの刻~道』では、再び、倉本聰さんの作品に。老人ホームに入居する元女優を演じました。この作品の現場で会ったのが、倉本さんとの最後になったそうです。
倉本聰さん
「僕は、やっぱり信じ切っていました、彼女に関しては。信じて、頼れるっていう感じがあった。全く何を書いても不安はなかったです。僕にとっても、めちゃくちゃ大きい人です。大きいというのは、重大な人ですよ。それこそ肉親を亡くしたということ以上に、自分の仕事の力を1本失っちゃったという感じ」
2024年に公開された『室井慎次 敗れざる者』『室井慎次 生き続ける者』が最後の作品となりました。
自身の演技については、こんなことを話していました。
いしだあゆみさん(2011年5月20日
当時63)
「映画もドラマも見返すことは、今まで皆無なんですよ。一度、観たら、もう終わったものだと思うから」
自分の人生については、こんな言葉を残しています。
いしだあゆみさん(2022年8月11日
当時74)
「いま74歳ですから、いつ何があってもおかしくない。だから、あまり我慢しないで、やりたいことはやって、いやなことはやらない。わがままですけど、そういう生き方をしたいし、小さいころから、線香花火が好きだった。線香花火みたいに生きたいなと」